社長ブログ

2021/05/19

秋田を離れましたが…… | 桜井 元

 秋田県知事選、秋田市長選などの投開票日に「高齢者」の仲間入りをさせていただきました。これを機に、常勤の相談役を非常勤に切り替えてもらい、連休明けに秋田を離れました。

 あの震災をはさんで、仙台(東日本放送)が4年、秋田が7年11ヵ月と、東北連続11年11ヵ月の単身赴任生活でした。名古屋、2回目のドイツ、2回目の福岡を合わせると、通算16年。1981年に新聞社に入りましたから、40年の会社員人生の4割が単身赴任だったことになります。

 東北の単身暮らしで大膨張した本・楽譜・CD・DVDがもとの横浜のマンションに入りきらないので、少し収納の大きな中古マンションを近所に見つけました。いま住んでおられるご家族が転居され、リフォームの工事が終わるまで、秋田のほとんどの荷物は、土崎の倉庫で保管していただいています。

 コロナ禍のため、お世話になった皆さんにご挨拶をすることもままならず、送別のお申し出を辞退させていただくなど、たいへん失礼いたしました。非常勤とはいえ、相談役としてまだ会社につながっておりますので、会社のイベントや秋田のお祭りなどの機会をとらえて、秋田へ時々、顔を出したいと考えています。きょうも電話で、取引先の社長さんが「タイミングあわせて一緒に秋田へ行きましょう」と声をかけてくださいました。

 12年ぶりに横浜市民に戻りましたが、まん延防止等重点措置が発令中なので、外食してもビールを頼めず、「不自由感」を味わっています。3桁の神奈川県の感染者数はあまり気にとめず、秋田県の数字が10人を超えたかどうかに一喜一憂しています。

 こうしてAABのホームページに小文を寄せることも少なくなるでしょうが、秋田のニュースに刺激され、気まぐれに書いてしまうかも知れません。

 リモート隠居の「戯れ言 たわ言 ひとり言」と受けとめて、サラッと読み流してください。

2021/04/09

「なまはげ」は地域防災のど真ん中 | 桜井 元

 10年前の震災当時、仙台のテレビ朝日系列局・東日本放送(KHB)で夕方のニュースを読んでいたアナウンサー奥村奈津美さんが、「子どもの命と未来を守る!――『防災』新常識」(辰巳出版)を出版した。表紙に「パパ、ママができる!水害・地震への備え」「妊娠・出産したら読む防災の本!」とうたわれているように、どうしたら子どもたちの命を守れるか、避難中の母子の栄養状態にどう配慮すればよいかなど、専門家へのインタビューや分かりやすいイラストを通して、具体的に描かれている。

 

 奥村さんは2011年3月11日午後2時46分、仙台市内の自宅マンション(7階)でひとり台所に立っていた。午前中、沿岸部の畑で取材し、そこで収穫した野菜を自宅で調理してから、KHBのスタジオで撮影する予定だった。揺れ始めて火を止めた直後、大きな揺れとなって約30㌔のオーブンレンジが飛んだ。外へ逃げようとドアを開けたら、マンションから振り落とされそうに感じてドアノブを握りしめた。「人生で初めて死の恐怖を感じました」と振り返っている。

 KHBに着いた奥村さんは、72時間の緊急放送のアナウンスを担当。「仙台市〇〇で、約200体のご遺体が見つかったという情報があります」「いま分かっている行方不明の方のお名前を五十音順にすべて読み上げます」――マイクに向かい続けた。

 「この世のこととは思えない被害状況を、全国の人に向けて、助けを求める気持ちで伝え続けましたが、正直、今も無力さと悔しい気持ちが残っています」と書いている。

 

 これが「原点」となり、ほどなくNHK広島放送局へ移ったあとも、視聴者に呼びかけてラジオを集め、被災地へ届けるなど、支援活動を続けた。東京へ戻ってフリーとなってからも、TBSの「はなまるリポーター」やNHKラジオのアナウンサーを続けながら、被災地の人たちの思いを大切にしてきた。防災士、福祉防災認定コーチの資格をとり、熊本地震直後の現場も訪ねている。

 

 子どもを寝かしつけてから、原稿を書き続けた「『防災』新常識」では、妊娠中の避難のため備えておくべき品物を紹介。赤ちゃんを連れた避難では「パパ・ママは警戒レベル3で避難です」「ストレスで母乳が出なくなる、は誤解」「非常持ち出し袋には紙コップ、割りばし、粉ミルクを3日分入れておこう」、子どもが歩けるようになったら「子どもと防災散歩しよう」などと母親の視点から具体的に呼びかけている。

 コロナ禍で、ソーシャルディスタンスを取らなくてはならず、分散避難が呼びかけられている現状では、避難先は自治体指定の避難所に限らず、「自宅、親戚・友人宅、ホテルなども含まれる。何より子どもにとって安全な場所に避難することが大事」と指摘している。

 

 「障がい児を災害から守るためにできること」では、男鹿市生まれの跡見学園女子大学教授で福祉防災コミュニティ協会代表理事の鍵屋一さんにインタビュー。鍵屋さんは次のように「なまはげ」の役割を強調している。

 なまはげは大みそかの夜に、子どものいる家にやってきて、「泣く子はいねぇか」「親の言うことを聞かねぇ悪い子はいねぇか」と2匹で20軒ぐらい回って歩くんです。家の中に入ると「じいさん、だいぶ年取ってきたな」とか、「この子は障がいがあるから大変だな」とか、一人で逃げられない人がいることが分かってくるわけです。なまはげは、地域の模範的な若い衆がやっていて、男鹿の場合だと、消防団にも入っています。災害の時は、その消防団が助けに来るということです。そして、逃げる先が神社になっていて、なまはげが参道をきれいに整備する。これが避難路になるわけです。なまはげという行事で、子どもを戒めに行って、盛り上げるんですけど、災害になったら、支援者となって、自分ひとりで逃げられない人を避難路を使って避難場所まで逃がす。地域防災のど真ん中をなまはげはやってるんですね。

2021/03/12

人を楽しませることの素晴らしさ | 桜井 元

 東映㈱代表取締役グループ会長・岡田裕介さんの「お別れの会」が10日、東京・渋谷であり、岡田さんにはテレビ朝日ホールディングス、九州朝日放送、北海道テレビ放送の社外取締役をつとめていただくなど、系列としてお世話になったこともあって、秋田から出かけた。献花をしたのは2000人を超え、会場には岡田さんがプロデュースした映画の名場面、授賞式や古希祝いの会などで挨拶する姿が流された。

 岡田さんは昨年11月18日、吉永小百合さん主演の新作映画「いのちの停車場」(5月21日公開予定)の打ち合わせ中に大動脈解離で倒れ、救急搬送されたが、そのまま旅立った。71歳だった。

 「お別れの会」で配られた冊子によると、岡田さんは慶応義塾大学在学中に新宿でスカウトされ、1969年にテレビドラマでデビュー。翌年、庄司薫さん原作の映画「赤頭巾ちゃん気をつけて」のオーディションに「薫と同じ(日比谷)高校に通った自分がやるべきだ」と合格、主演の座を射止めた。以来、出演・企画・プロデュースした作品は、テレビドラマを含めて計103本。一般社団法人日本映画製作者連盟や日本アカデミー賞協会組織委員会の会長をつとめるなど、まさに日本映画界のリーダーだった。

 冊子には、吉永小百合さん、西田敏行さん、水谷豊さんら15人が「贈ることば」を寄せ、一部はご本人の声で会場に流された。
 笑福亭鶴瓶さんは、「会長やのにこんなにイジりがいのある人はいない。イジると嬉しそうに『アホなこと言いな』と返してくれた。たぶん本人は死んだとは思ってないやろ。コロナが収束する頃に戻ってきてほしい」

 岡田さんの言葉も紹介された。「プロデューサーは努力(断られても向かっていく執念)、才能(監督と俳優もシナリオライターも)、経験(何事も自分で動く)」「映画って一人で見ててもあんまり面白くないんですよ。映画館へ来てみんなで感動を共有したりすることって、僕はなくならないと思ってます」。コロナ禍での映画館自粛については「戦争中だって、パチンコ屋と映画館だけは閉めなかったんだ」

 会場の映像は、岡田さんの笑顔とともに、次のようなメッセージで締めくくられた。放送局を含め、映像・音楽表現にかかわる者として胸に刻みたい。
 「人を楽しませることの素晴らしさ。その想いは、私たちの中に生き続けています」

2021/03/09

10年前の傷あと | 桜井 元

 東日本大震災から10年。節目の年なので、放送局も新聞社も、特集を組む。深夜に過去の番組が再放送される。津波が押し寄せる場面をヘリコプターからとらえたNHK、毎日新聞、自衛隊などの映像も久しぶりに見た。

 あの日、テレビ朝日系列の東北ブロックで共同運航を委託していたヘリコプターは、格納庫の中で揺れた。が、後ろの2機は互いにローターなどがぶつかって、飛べない。1機だけ飛べると判断され、停電のためシャッターを切って、格納庫前へ引っ張り出された。2人が乗り込んで、ローターを回そうとした時、管制塔から「津波が来るので空港ビルへ避難せよ」と指示が出た。

 一通の始末書を書く勇気があれば、上空へ「避難」するのが、最善の道だった。どこかでカメラマンを乗せていれば、NHKや毎日新聞のように上空から波頭に迫ることができたはずだ。でも、素直に管制塔の指示に従ってしまった。そして、ヘリコプターはがれきとともに流された。

 仙台の東日本放送(KHB)では毎朝、立ったまま局長の打ち合わせを続けたが、数日後、秋田出身の技術局長が「ヘリが見つかりました」と写真を手に報告した。写真を見て、みんな黙り込んだ。

 震災で、みんな大小さまざまな傷を負った。被災地へ派遣された自衛官の中にも、心が傷ついて通院した人が少なくない。肝臓をやられて早世した同僚、カメラマンを辞めた人もいる。

 私の傷はとても軽微だが、自宅で割れたり壊れたりした品物の中には、ベルギーやドイツで買った陶器の人形もあった。会社では、後ろのキャビネットが飛んできて、机のわきに積んであった名刺整理箱が割れた。ふだん乱雑な机の上に何もなく、ガラスの破片だけがキラキラ光っていた。会社に向かう車の中で地震に遭遇したが、もし、そこに座っていたら、けがをしただろうと言われた。

2021/02/16

鴨下さんの言葉 | 桜井 元

 TBSテレビ(旧・ラジオ東京~東京放送)の常務取締役、相談役などを歴任された鴨下信一さんが10日、亡くなった。85歳だった。プロデューサー、演出家として知られ、「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」などドラマの名作を次々に世に送り出した。

 鴨下さんの話を伺ったのは2013年12月、放送人の会と上智大学メディア・ジャーナリズム研究所が共催した「第16回 放送人の世界――鴨下信一・人と作品」というセミナーの初日。「岸辺のアルバム」(1977年、脚本・山田太一、プロデューサー・堀川とんこう)の最終回や「女たちの忠臣蔵」(1979年、脚本・橋田壽賀子、プロデューサー・石井ふく子)の映像を流しながら、秋田県出身でTBSを飛び出してテレビマンユニオンをつくった今野勉さん(放送人の会・会長)が聞き手をつとめた。

 鴨下さんは、もともとバラエティや音楽番組のディレクターだった。ところが、40歳を目前にして、網膜剥離で右目失明のおそれがあると診断され、約40日間入院するなど、1年近く仕事を休んだあと、ドラマの演出が中心となった。
 「岸辺のアルバム」は、多摩川河畔の一戸建てに住む家族が、母(八千草薫)の不倫を軸に崩壊、再生を目指すドラマ。1974年の多摩川水害が背景にあり、実際に流れ出す住宅の報道映像も使われた。「それ以外に、濁流の場面は、中継車を出して私的に撮りだめていたんですよ」
 「衣装はね、八千草さんも連れて、渋谷東急(百貨店)で買いまくった。1枚3000円ぐらいの服を」。リアリティにこだわり、稽古は長くなった。「台所(の撮影)はたいへんだった。娘役の中田喜子さんは、コップの牛乳を洗うのに30分かかった」
 電話のベルにおびえる場面は、ヒッチコック監督の映画「ダイヤルMを廻せ!」(1954年)がヒントになった。「電話のとり方も、自分でやってみせた」
 「演出は、そう好きな商売じゃない。編集マンをやりたかった。でも、イノベーションが始まって、自分で電子編集がやれるようになった」「今のドラマより編集がうまい。音楽の入れ方もうまいと思う」

 鴨下さんは下町育ちで、祖母に歌舞伎、映画、藤原歌劇団、鈴本演芸場へ連れていかれた。東京大学文学部美学科で歌舞伎を研究。「歌舞伎の評論家になりたかった」という。
 豪華女優陣の出演で視聴率42.6%を獲得したドラマ「女たちの忠臣蔵」では、時代考証を依頼せず、自分で100冊ぐらいの本を読んだ。「時代考証の先生をつけると『それは分からないからやめてくれ』とクレームをつけられる。自分で調べればいい。たとえば、浪士たちがどうやって外から雨戸を開けるか。『仮名手本忠臣蔵』の九段目に1ヵ所だけ、弓を使う方法がちゃんと書いてあるんですよ」

 「みんな映画のことを知らない。芝居のことを知らない。テレビ局はこんなに文化程度が低いのかと思ったよ」「映画関係者5、60人の前で講演して、『黒沢明を観たことがある人』とたずねたら、7、8人しか手を挙げなかった。若い人は映画を観ないね。もっと勉強してほしい」

 「本(脚本)がいいと、カメラ割りは3時間でできちゃう。本の良さを1~2段階上げるのが、演出家のつとめ」
 プロに徹したテレビ界の先輩が、旅立った。

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